歴史・人物

学校創立に多大な尽力

中島精一(1848~1941)

明治初期の殖産事業であった養蚕業を営むうえで、最大の弊害である 蚕病(微粒子病)駆除の技術者を養成する伝習所を創立することを唱えていた中心的な人物であった。

精一は、嘉永元年(1848)10月下塩尻の母袋忠右衛門の子として生まれたが、若くして秋和村庄屋・中島直道(林太郎)の養子となった。
養父の死後、庄屋職を継ぎ戸長を歴任したあと、明治12年行われた初の県会議員選挙に小県郡から立候補し、当選した。明治15年には更科郡長兼埴科郡長に抜擢された。

県会においても侃愕の論を吐き強硬な論客の一人であったという。明治23年5月小県郡長に就任した。この年の11月には、蚕業学校設立趣旨書を郡内の各町村を経て関係者に送付し賛同を求めた。郡内35ケ町村にはほとんど反対はなかったが、一部蚕種業者に批判的な意見もあったという。

このように若干の紆余曲折があったが、明治25年3月小県郡会第2回通常会において小県蚕業学校設立案は可決をみたのである。設立の決まったあと一気に同年5月10日、本校の開校に向かって突き進んで行くのである。

このように設立に際し中軸者をなし、しかも三吉米熊の内助者として蚕業学校設立の必要性を説き、開校に至ったのはその先見の明と努力の賜というべきであろう。

精一には、こんなエピソードが伝わっている。それは明治の終わり頃、上田の各中等学校は校紀廃頽を叫ばれることが多かったという。精一が上田中学校の卒業式の式典中、来賓者挨拶として壇上にたった。来賓者の祝辞といえば多くはお世辞めいたことを言うのであるが、精一は教職員や生徒の前で、教職員の風紀廃頽をとうとうとしゃべりまくった。生徒は唖然、教職員は苦笑したという。事実のことを言われたのだから誰も反発する者はいなかったという。同じ年、上田高等女学校でも同じことを繰り返して全校を震撼せしめたことは、後の語り草になっている。

精一は正義の前には天地をも恐れぬ情熱をもって突き進んでいたので、その行動は万人を摺伏せしめ、かつ畏敬の念をいだかせたという。小県郡長を辞したあと東筑摩郡長、茨城県警察部長(県警本部長)などを歴任し、野に下った。

野に下っても蚕業界の発展には忘れたことはなく、ほとんど衰えを知らなかった。霜のような白ひげのトレードマークであった気骨で、しかも精力家であった精一も太平洋戦争が始まった年、昭和16年3月9日に不帰の客となった。享年94歳の高齢であった。

長野県上田東高等学校
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