初代校長
三吉米熊みよしよねくま(1860~1927)
万延元年(1860)6月10日、長府藩士・三吉慎蔵、イヨの長男として山口県豊浦郡長府村(現在の下関市)に生まれた。
幼少期を長府で過ごした後、明治4年藩籍奉還に伴い藩主が上京する際、父慎蔵も随行することになり一緒に父と上京する。
上京後、私塾などで英語やさまざまな学問を学んだ後、明治11年(1878)3月から内務省勧農局の駒場農学校(東京大学農学部の前身)に入学した。明治13年農学本科を卒業するが、学校に残り、無機・有機化学並びに定量分析なども修得して明治14年3月修業した。
修業後なかなか就職先が見つからなかったが、同郷出身者が長野県の吏員であった縁故から、長野県に奉職する。勧業課農務係に配属され、各地を巡回し、指導するのが主な任務であった。しかし、長野県は養蚕が盛んなところであり、養蚕について学んだことがあまりなかったので、農家からの質問に窮することがたびたびあったという。このことから養蚕の必要性を強く感じ、当時養蚕の先駆者であった小県郡塩尻村の藤本善右衛門らや、東京の西ケ原蚕病試験場へ通い勉強したという。ただこのとき、東京への出張は県知事の許可を得ていなかったため、後に県知事よりこっぴどく怒られたという。(明治17年頃)
このころ、蚕種業界では微粒子病が問題になっていたが、このときいち早く顕微鏡を用いて蚕種検査を行ったのが米熊である。県下各地に開設された伝習所や講習所に講師として招かれるようになる。
明治22年3月、米熊は農商務省からイタリア、フランス両国の蚕業事情調査の一員に委嘱され渡欧する。パリの博覧会、ミラノ、ローマなど各都市の養蚕業の状況を視察。公費での5ケ月の調査期間終了後も、一人残って約2年間の私費留学を行い、明治24年に帰国する。
帰国後の明治25年5月、国内最初の蚕業学校である「小県郡立蚕業学校」に初代校長として招かれ、昭和2年に亡くなるまでの36年間校長を務める。
この間、自ら蚕体生理学、蚕体病理学を講義し、実習指導も行う。当時蚕学校には、全国から生徒が集まり、各県からの視察もあった。
明治41年(1908)、文部省より国立の上田蚕糸専門学校(信州大学繊維学部の前身)の創立委員にも任じられ、創立後は同校教授にも任じられる。
明治44年、東京帝国大学教授の友人より、国立原蚕種製造所の設立にあたり所長に迎えたいという再三にわたる依頼があったが、「この蚕業学校で生涯を終わる決心でいる」と断ったという。中央への栄達の道を選ばず、この上田の地を拠点として日本蚕糸業の近代化にその生涯を捧げた。
昭和2年、春ごろから体をこわし病床につくが、9月1日その生涯を終える。享年68歳。お墓は、鍛冶町の本陽寺と、出身地の下関市長府の功山寺(国宝)の父・慎蔵の隣に分骨されている。
授業風景 |
伊仏両国も蚕糸業視察一行とともに (ミラノにて・右端) |
上田城跡公園内にある三吉米熊胸像 |
現在の胸像(上記写真)は、昭和26年、創立60周年記念事業において再建されたもの。当初は、大正5年4月、常入権現坂上の校庭で創立25周年記念事業のときに銅像(前身象)が建立された。
大正11年に新校舎が現在の地(常田)に移転した際、銅像はそのまま権現坂上の旧校舎跡地に残された。
昭和8年、同窓会が上田市に働きかけ、上田城跡公園の熊小屋東に移転することが決まり、10月に移転。(上田市に寄付)しかし、昭和18年、戦時下において戦況が悪化、鉄物資等が不足するにおいて銅像供出が決定、供出する。
現在の胸像の製作は、地元出身の彫刻家・中村直人(1905~81年)。