学校のあゆみ

昭和時代

1927年(昭和2年)
9月、三吉米熊校長逝去。(68歳)
1931年(昭和6年)
9月、満州事変勃発。
1932年(昭和7年)
校歌制定。土井晩翠作詞、岡野貞一作曲。
1933年(昭和8年)
10月、権現坂の取り残された三吉米熊銅像を上田城跡公園の現在の地に移転する。
1937年(昭和12年)
7月、日中戦争勃発。
1941年(昭和16年)
12月、太平洋戦争勃発。
1943年(昭和18年)
2月、大正5年、創立25周年に造られた三吉米熊初代校長銅像、軍事目的のため国へ供出。
1944年(昭和19年)
4月、上田蚕糸専門学校は「上田繊維専門学校」と改名。
12月9日、米軍機の空襲により校舎喪失。
1945年(昭和20年)
8月15日日本、無条件降伏。終戦。
1946年(昭和21年)
4月、長野県小県蚕業学校は「上田農業学校」に改名。
1948年(昭和23年)
4月、学制改革により「長野県小県蚕業高等学校」となる。
定時制課程の設置に伴い、青木、泉田、浦里、中塩田、傍陽に分校設置。
(泉田分校・32年3月、青木分校・35年3月、浦里、中塩田、傍陽の各分校・40年3月、それぞれ廃校)

復興した新校舎(昭和23年2月)
1949年(昭和24年)
4月、上田繊維専門学校は「信州大学繊維学部」となる。
6月、皇太后陛下御来校。
1951年(昭和26年)
10月、創立60周年記念式典挙行。
記念事業として三吉米熊初代校長胸像(製作・中村直人)、上田公園に再建。
※この年から、同窓会長に同窓生初の宮下周氏が就任する。

三吉校長胸像除幕式式典
1958年(昭和33年)
10月、兵庫県の尼崎養護学校の生徒が飛ばした風船が烏帽子岳の中腹の木にひっかかっていたのを傍陽分校の教諭が見つけた。12月に分校で取れたリンゴを送ったことから交流が始まる。
1960年(昭和35年)
7月、校舎及び付属建物、火災により消失。
1961年(昭和36年)
11月、創立70周年記念式典挙行。
1962年(昭和37年)
4月、長野県小県蚕業高等学校は「長野県上田東高等学校」と校名を変更。
1963年(昭和38年)
4月、蚕業科生徒募集停止
1969年(昭和44年)
3月、定時制課程廃止。
1971年(昭和46年)
10月、創立80周年記念式典挙行。記念事業として翌年3月「図書館」竣工。

図書館(記念事業として建設された)
1972年(昭和49年)
3月、農業科、林業科、家政科廃止。
1981年(昭和56年)
11月、創立90周年記念式典挙行。
1983年(昭和58年)
1月、第61回全国高等学校サッカー選手権大会出場
1984年(昭和59年)
1月、第62回全国高等学校サッカー選手権大会出場
1985年(昭和60年)
1月、第63回全国高等学校サッカー選手権大会出場
1986年(昭和61年)
1月、第64回全国高等学校サッカー選手権大会出場
8月、全国高等学校総合体育大会(インターハイ)テニス(男子・女子)出場
1988年(昭和63年)
8月、全国高等学校総合体育大会、テニス(男子・女子)出場
夏の甲子園大会に初出場。(第70回全国高等学校野球選手権記念大会)

甲子園大会
昭和63年8月7日、午前9時入場開始。
全国の高校3,958校の各地区の頂点に立った49の出場校。
上田東高校は32番目に入場した。

時代ごとのあゆみ

長野県上田東高等学校
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