しだれ桑 第50号より

初代校長・三吉米熊の縁が結ぶ高山社(世界遺産)と競進社

 昨年6月に上田市内で開催された、米熊・慎蔵・龍馬会の定期総会に埼玉県さいたま市在住の町田尚夫さんという方が来られ、開会前、上田東高校にも寄られたそうです。その日は土曜日で、たまたま同窓会の評議員会・総会と重なったためお話することが出来ませんでした。

 ところで、この町田さんの父が木村九蔵さんという方で、本校の前身・小県蚕業学校を大正11年に卒業されています。九蔵というのは襲名で、本名は貞蔵。この貞蔵の祖父、初代・木村九蔵が埼玉県を代表して、明治22年、後に小県蚕業学校の初代校長に就任する三吉米熊と、当時の農商務省の委託を受けて、イタリア、フランス両国蚕糸業状況視察に同行しています。このときはほかに、米熊と同じ長野県から大里忠一郎、群馬県は田中甚平、農商務省技師・高島得三の3名、合わせて5名が渡欧しました。

 さて昨年富岡製糸場とともに世界遺産となった藤岡市の高山社跡がありますが、これは九蔵の兄である養蚕指導者で、「清温育」を開発した高山長五郎が明治6年に高山組を結成したのが始まりです。明治17年に教育機関である養蚕改良高山社が設立され、明治20年に藤岡市に本拠地が移されますが、長五郎はその前年に亡くなってしまい、愛弟子の町田菊次郎が二代目社長になります。明治34年に高山社蚕業学校となり、最盛期の明治40年には、4万人の社員と千二百名の生徒がおり、分教場は62カ所に達し、全国一の規模がありましたが、昭和2年に廃校となってしまいました。

 一方、九蔵は兄長五郎に倣い、明治10年に競進組をつくり、同17年に競進社を設立しました。高山社と競進社がお互いに競い合い、養蚕技術の向上に努めました。二代目・九蔵も明治32年に設立された競進社蚕業学校の第三代校長を務めます。その息子三代目・九蔵(貞蔵)は、父の学校ではなく、祖父の縁から小県蚕業学校へ入学しました。町田さんによりますと、「敢えて『他人の飯を食う』ことによって一人前にしたいという親心であったのではないか。」と言っております。競進社蚕業学校はその後、私立から県立へ、校名も時代とともに変わり、平成7年に埼玉県立児玉白楊高校と改称され現在に至っています。

 このような縁があったと聞き、町田さんには上田東高校の100周年、110周年、120周年記念誌と父・木村九蔵(貞蔵)さんが本校を卒業した年の名簿のコピーをお送りしたところ、児玉白楊高校の80年、100年の2冊の記念誌を送っていただいた上、多額のご寄付をいただきました。この紙面を借りて、あらためて御礼申し上げます。

(副会長 戸島則男)


明治22年撮影

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